Documentary

“らしくない” のがMomoの個性、夢の場所バーレスク東京で輝くために

2022.01.12
Momo
取材・文:岡本のぞみ(verb)
撮影:有泉伸一郎(SPUTNIK)
Momo ダンサー。2000年、香川県生まれ。3歳でダンスを始め、18歳で東京・六本木にあるバーレスク東京のダンサーに。Tik Tokフォロワー53万人を超えるインフルエンサーやグラビアモデルとしても活躍中。
2年前まで、地元の香川でフリーターだったMomoさん。バーレスク東京での出演が決まると、上京する様子がドキュメンタリーで放映され、瞬く間に人気ダンサーに。いまやインフルエンサーやグラビアモデルとしての顔ももつが、これらすべては、彼女自身がチャンスを一つひとつ掴み取って得たもの。愛くるしい表情で踊る姿の裏には、懸命な努力と覚悟があった。

映画『バーレスク』の世界に憧れて

東京・六本木のバーレスク東京のダンサーとしてステージで歌い踊る日々を送るMomoさん。物心ついたときには、ダンスが日常にあった。

映画『バーレスク』の世界に憧れて

「3歳からダンスを習い始めました。初めはモダンバレエでしたが、そのうちオールジャンルを習うように。月曜はバレエ、火曜はヒップホップ、水曜はジャズ……と日替わりでした。日曜は、地元の香川から神戸まで、先生に習いに行っていました。習いごとはほかにも色々やらせてもらっていましたが、続いたのがダンス。踊るのはもちろん、発表会とか人に見られるのも好きで。その頃から自分にはダンスしかないと思っていました」

当時の夢は、ディズニーダンサー。しかし、小学6年生になると、身長が伸びない現実を知り、その夢を諦めることに。しかし、すぐに次の夢が見つかる。

「神戸のダンスの先生に映画『バーレスク』のことを教えてもらって、私もこういうセクシーなダンスを踊ってみたいと思いました。ダンスのなかでもラテンダンスに惹かれていましたし、昔から女性にしか出せない色気を表現している姿に惹かれる自分がいたんです。バーレスクはステージの近さもあって、ショーで観客を魅了するのって素敵だなと思いました。調べてみると、東京にできたばかりのバーレスクがあったんです」

将来はバーレスク東京のダンサーになる――そう決めてダンスを続けていたものの、いざ高校卒業が迫ると、バーレスク東京のダンサーになるには、ダンサーのキャリアやフォロワー数を問われる厳しいオーディションに勝ち抜く必要があると知る。そのため、まずは大学でダンスを勉強しようと合格するも、父に進学を反対されてしまう。仕方なく、地元でお金を貯めるために、昼は配送会社、夜は居酒屋でアルバイトをしていた。1年近くそうした生活をした末、やはり憧れのバーレスク東京に行くことを決意する。

映画『バーレスク』の世界に憧れて

「とにかく、バーレスク東京を見るだけでも見ておこうと思ったのですが、運よく常連のお客様の目に止まって、店長に会わせてもらえることになったんです。まず、ショーを観せてもらって、それまで動画でしか観たことがなかったんですが、生のステージは、何倍も何倍もまぶしくて! ただ、私はあのステージに立つことはできない、楽屋にも入ることはできないと思うと、すごく悲しくて。そう思ってその場を後にしようと思っていたら、店長に面接をしてもらえることになったんです。もう、落ち込んでる場合じゃないと思って、猛アピール。すぐにでもバイトを辞めて、上京する意思があることを伝えました」

結果は、合格。父に話すと反対されると思ったMomoさんは内緒にしたそう。「そのとき受かったのなんて、ただのラッキー。誰になんと言われようと、やってやる気持ちでした」と言い、宣言通り、すぐに上京の準備をする。チャンスは、一瞬。「幸運の女神には前髪しかない」ことを直感したのだろう。しかも、タイミングよくフジテレビ『ザ・ノンフィクション』で、上京するダンサーに注目していることがわかり、テレビデビューも決定。まず一つの運をものにした。

「私のことを拒絶している人なんて、いなかった」

バーレスク東京のダンサーは、AチームとBチームにわかれている。新人はBチームを経てAチームに配属されることが多い。正式入店になれば、動画でBチームのダンスを覚え、ショータイムに出るためのテストを受ける。それにパスしてショーに出られるようになると、夕方に入店してヘアメイクを済ませ、18時30分から翌27時まで3部あるショーに出演する。ショーに出られるようになると、夜は出ずっぱりとなる忙しい日々が続く。もちろん、新人のうちはダンスの練習も必須だ。

「私のことを拒絶している人なんて、いなかった」

Momoさんの場合、上京前から密着カメラが入る異例の体制。加えて当時は新人をBチームのセンターに起用する方針もあった。こうした恵まれた環境が原因となり、問題が勃発する。Momoさんは、楽屋で孤立した存在になっていたのだ。

「入店した当初の私は、自分の殻に閉じこもっていました。周りを見れば先輩には10万フォロワーを抱える人もいる。女社会というのも経験したことがなくて、新人のくせに優遇されていることに対して、どう思われているんだろうと考えすぎていました。その結果、私はここで踊るためにいて、友達をつくりにきているわけじゃないと頑なになっていたんです。先輩に会っても、最低限のあいさつだけ。自然なかたちで先輩に接することができずにいました」

スカウト入店だったため、同期がいないことも問題に拍車をかけた。そんなMomoさんを救ったのが先輩のSioriさんだった。

「私のことを拒絶している人なんて、いなかった」

「営業後に『ちょっとお話できる?』と話しかけられました。Sioriさんは、『確かに友達をつくりにきているわけじゃないけど、ショーはみんなでつくりあげるもの。誰一人欠けちゃいけないと思っているよ。私には結婚式にも呼びたいと思うくらい素敵な仲間がいるから、Momoちゃんにもそういう仲間をつくってほしい』と言われて、考えがガラッと変わりました。本当にそのとおりで、たしかに私のことを拒絶してる人なんて一人もいなかった。次の日から、みんなとちゃんとコミュニケーションを取るようにしようと思いました」

心を入れ替えた頃、また一つのチャンスがやってくる。3月の桃の節句に合わせ、Momoイベントをやろうと、店長が企画してくれたのだ。

「大変なことになったと思いました。当時はまだノンフィクションの放映前だったので、私を知っているお客様なんてほとんどいません。そんななかでイベントをすることは、集客して客席をどれだけ埋められるかを求められているということ。でも、私はバーレスクで生きていきたいから、『No』とは言いたくない。やろうと決めたことはどんなにしんどくても全部やりました。その日がファンにとって特別な日にしないといけないと思って、めっちゃ頑張った記憶があります」

「私のことを拒絶している人なんて、いなかった」

Momoさんが決めたこととは、ショーの出番以外はフロアに出て、新規のお客にアタックし、自分をアピールすること。ステージが終わった後、朝5時まで新しい振りを練習すること。出番の合間、本来は休憩時間だが、それをなくし、夕方から朝5時まで全力でイベントに向けて努力した。その結果、目標となる集客数を上回ることができた。

休業期間に「どれだけ成長できるか」

入店して3ヶ月が経過した頃、『ザ・ノンフィクション』の上京物語が放映された。テレビの影響は凄まじく、Momoさんのインスタグラムのフォロワーは一気に2万人を超えた。これを機に勢いをつけたいと思った矢先、新型コロナウィルスの蔓延防止により、バーレスク東京は休業となってしまう。

「もし休業が半年続けば、せっかくのテレビの効果も無くなってしまう。でも、この期間にどれだけ成長できるか、チャンスだとも思いました。全曲の振りを覚えてくる子もいるだろうし、いろんなことを考えられる時間があります。そのなかで私はSNSを頑張ったら、忘れられない存在になるんじゃないかと考えて、Tik Tokを始めました。本やYouTubeで調べて、どんな投稿にしたらいいか、おすすめに載るにはどうしたらいいか、Twitterとの連携はどうしたらいいか……とか」

休業期間に「どれだけ成長できるか」

地道に投稿を続けた結果、Tik Tokの変身動画が1,200万回再生とバズり、一気にフォロワーが20万人に。現在まで、Tik Tokはもちろん、インスタグラムやTwitterの投稿も続け、総フォロワー数は82万人を突破。バーレスク東京で、ナンバーワンのインフルエンサーになった。これまで2回のチャンスは与えられたものだったが、今度のチャンスは自分で掴みにいったもの。

「ちょうどイベントも終わって、そろそろ新人として推してもらえる期間も終わるだろうと思っていました。実際に後輩も入ってきていて。特別にかわいいわけじゃない自分が、またドカンとくるために、明確にわかる数字を上げたいと思っていました。投稿も中途半端はイヤだから、角度とかにこだわったら、1投稿に2時間かかることもあります。やっぱりバーレスクっていう場所は、みんなかわいい子ばかりだし、新人さんも入ってくる。その子達に負けたくないっていう気持ちは、正直あります。意外と負けず嫌いなんですよね(笑)」

“らしくない”のが私の個性、新しい可能性がみえた

日本一のエンターテイメントショークラブと言われるバーレスク東京には、魅力あるダンサーが集まる。しかし、ベースは六本木のお姉さんがセクシーなラテンダンスを踊ること。Momoさんは、そこに固執せず自分を客観視して、アピールしたことが成功のカギとなった。

オープニング、ステージ中央でダンスするMomoさん。
オープニング、ステージ中央でダンスするMomoさん。
Bチームによるパフォーマンスでセンターを務める。
Bチームによるパフォーマンスでセンターを務める。
“らしくない”のが私の個性、新しい可能性がみえた

「バーレスクでは、唯一無二になると決めていました。どのダンサーを見ても個性が強くて、同じようになりたいと憧れていたら、生き残れない世界。半年で辞める人もたくさんいるほど厳しいんです。私自身は、六本木“らしくない”のが個性。黒髪で素朴、幼いところをみんなが応援してくれることがわかって、これを所属するBチームの個性にして目立ってやると思ったんです。実際、同時期に同じようなアイドル路線の女の子が入ってきてくれたこともあって、今はBチームにも光りが当たっています。Bチームの文化は日本のバーレスクらしさがあって、海外の人にもウケがいい。お客様も社長さんやビジネスマンだけじゃなくて、アイドル好きの方々やカメコさん達が増えてきました。いまは、『六本木らしくないね』、って言われるのがうれしい。バーレスク東京をいろんな人に楽しんでほしいと思います」

バーレスク東京の人気ダンサー、そして立役者の一人として成長したMomoさん。今後については、どんな将来を見据えているのだろうか。

“らしくない”のが私の個性、新しい可能性がみえた

「いまの目標は、大好きなバーレスクをもっと広めていくことです。夢みたいな場所でこんなに活躍できて、前世の人はすごく徳を積んでくれたんじゃないかなって(笑)。だから、プロデューサーにはとても感謝しています。この前、プロデューサーの夢を聞いたら、バーレスク東京のみんなで武道館公演することだと聞きました。私はその夢を叶えるために、もっともっと有名になりたい。私の夢になった場所をつくってくれた、プロデューサーの夢を叶えてあげられたら、幸せだなと思います」

バーレスク東京を夢の場所と公言し、一生ここで踊りたいとも話すMomoさん。バーレスクのダンサー、そしてタレントとしてここまで熱量をもって行動できる、その源泉とは?

「人生一度きり。この顔、この体型で生きてるのも今だけです。来世はまた違う個性があるはずで、この仕事にはついていないと思います。だから、挑戦したいと思ったときに挑戦することが大事。私は18歳でバーレスクに来ましたが、1年後だったらこうなれていなかったかもしれない。ピンチはチャンスだし、何でも掴み取ってやろうと思ったから、今があります」

こう考えるようになったのには、一つのきっかけがあったと言う。

「おばあちゃんが亡くなったとき、もっと電話しておけばよかったと思ったから、後悔はやめようと思いました。失敗も、考える機会を与えてくれますよね。後悔しないと自分に誓うと、行動できるんです」

自分にしかない個性を磨けば、誰でもチャンスはくる。それを夢にするために生まれてきた。人生は長い夢のステージを駆け抜けるためにある。Momoさんは、今日も全力で夢に挑み続けている。

“らしくない”のが私の個性、新しい可能性がみえた
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