Documentary

若者の移住が増える福島県浪江町は「生きることを真剣に考えられる場所」

2022.06.16
塩野美里
取材・文:岡本のぞみ(verb)
撮影:有泉伸一郎(SPUTNIK)
塩野美里 1994年パキスタン生まれ、埼玉県育ち。大学卒業後、旅行会社JTBに入社。法人営業を4年半経験し退社。2021年11月から浪江町に移住。地域おこし協力隊として浪江町役場なみえプロモーション課に所属し、観光資源のコンテンツ化やPR活動に当たっている。
東日本大震災から11年。福島第一原発近くの浪江町では、2017年に一部地域の避難指示が解除され、町民の帰還は着実に増えている。それとともに福島県内以外からの移住者も増え、昨年は20〜30代の若者の移住者数が伸びているという。地域おこし協力隊として、昨秋移住してきた塩野美里さんもその一人。彼女が浪江町に移住し、見出そうとしていることは何か。その思いに迫った。

きっかけはコロナ。もう東京にいる必要はない

1年前まで東京の旅行会社でバリバリ働いていた塩野美里さん。環境を大きく変えたきっかけを知るために、大学時代まで振り返ってもらった。

きっかけはコロナ。もう東京にいる必要はない

「大学は経営学部でしたが、ゴスペルの部活ばかりやっていました。就活がスタートすると、やりたいことが見つからないと悩む日々。まわりの友達がやりたいことを見つけていくなかで、自分は全然はっきりしなくて。なんとか、がんばれるんじゃないか、と思ったのが旅行関係の仕事。消去法みたいな感じです。ただ、社会課題の解決や地方活性化には当時から興味がありました。だからといって地方に住むという考えはなくて、東京のベッドタウンで育ったので、東京の大学を卒業して東京で働くという一択でした」

東京の大手旅行会社に入社後は、社会人として忙しい日々を送ることになる。

「旅行会社では法人営業をやっていました。営業といっても、企画提案から精算、現地の添乗員まですべて一人でやるのが仕事。残業も結構やりました。充実していたと思いますが、だいぶキツかったです。そんな日々の中でも、社会課題の解決を仕事にしたい思いはあって、起業のためのアカデミーに通って、やりたいことを模索していましたね。旅行会社でもそうした仕事ができないわけではないですが、若手が任せてもらえる仕事ではありませんでした」

きっかけはコロナ。もう東京にいる必要はない

東京で働くキャリアに転機が訪れたのは、2020年になってから。新型コロナウィルスによって生活様式に変化があったことがきっかけだった。

「仕事でも友達でも、オンラインでつながればいいんだと思いました。なにも、こんなに人が多い東京にいる必要はないかなと。そう思って、地方活性化に関わっている企業に転職しようと活動して、内定ももらいました。ですが、その企業もコロナで業績が悪化したため、入社を断念。それが2021年8月でした。もう一度すべてを白紙に戻して考えましたが、地方活性化に携わりたいという気持ちは残ったんです。地方に移住して活動しよう、となったときに地域おこし協力隊という選択肢がありました」

浪江らしさってなんだろう?

地域おこし協力隊とは、個人が地方自治体に移住し、地域活性化のための商品やサービス開発、PRなどの活動を行うもの。活動費として報酬が支払われ、任期は1年以上3年未満となる。塩野さんは、地域おこし協力隊なら、つてのない状態で地方に移住したときに、個としての自分の力を身につけられる、と思ったという。すぐに、募集のある自治体すべてに目をとおした。

浪江らしさってなんだろう?

「自分のなかの条件は、海のある地域。埼玉出身なので、海のある町に住んでみたかったんです。そのなかで見つけたのが、浪江町でした。詳しく募集内容を見て、そのとき初めて、まだ“東日本大震災の復興が終わっていない”という事実に衝撃を受けたんです。震災当時、私は高校1年生。自分が社会人になるまで何もできなかったけど、いまだったら何かできるかもしれないと思いました」

社会課題を解決したい、地方活性化に役立ちたいと思っていた塩野さんにとって、浪江町で復興にたずさわることは大きな使命が生まれた瞬間だった。さらに、浪江町に惹かれたポイントはもうひとつあったと言う。

浪江らしさってなんだろう?

「浪江町の募集のメッセージがすごくオープンだったんです。“浪江らしさってなんだろう?”という問いかけから始まって、これまでつくりあげたものもあるけど、これから見つけていくものもある、と書かれていました。それを読んで、古いものにとらわれず、新しいことに挑戦していける場所というのが町の雰囲気として伝わってきました。だから、親にも相談せず、もう浪江町に移住すると決めていました。普段は優柔不断ですが、大きな決断をする瞬間は、スイッチが入るタイプです(笑)」

大胆にも塩野さんは、一度も浪江町を訪れることなく、オンライン面接だけで移住を決意。旅行会社を9月末に退職し、準備期間を経て11月には浪江町の地域おこし協力隊として活動が始まった。

浪江らしさってなんだろう?

「浪江町の地域おこし協力隊には、いくつかのスタイルがあります。私の場合は浪江町役場の『なみえプロモーション課』に所属して、6人のメンバーとともにチームを組んで活動します。それぞれ町が抱える課題を見つけて、協力しあって解決に向けて取り組んだり、情報発信やイベント運営をしていくのが特徴です。自分たちでプランを立てて取り組むものなので、最初の3ヶ月間は自分がこれからやることを探していく期間となります」

塩野さんは、最初の3ヶ月でどんなことをやっていったのだろうか?

浪江らしさってなんだろう?
浪江らしさってなんだろう?

「町内に出かけたり町民に話を聞いたりする浪江町を知る活動や、チームのメンバーやまちづくり会社のサポートをしました。まちづくり会社では浪江町をアウトドアの拠点にしようという動きがあるので、たき火やデイキャンプ、電動トライクなどの観光コンテンツの開発やイベントの手伝い、子どもたちへのクリスマスオーナメントのワークショップもやりました。ほかにも、県内の小学生による防潮堤アートを企画したメンバーがいたので、その手伝いもやりました」

こうした経験を活かし、塩野さんは自分のやるべきテーマを決めて、今春から活動をしている。

浪江はもう私のホーム
「近所のおじちゃんにでっかい大根をもらいました」

ここで浪江町の移住者の現状にもふれておきたい。震災当時、町内には2万1000人を超える町民が暮らしていたが、町民全員に避難指示が出て、居住人口は0人になる。そして6年後の2017年3月、帰還困難区域をのぞいて避難指示が解除され町民の帰還が始まった。2022年4月末時点で、居住人口1871人に対して帰還者数は1290人。3分の1は移住者となる。なかでもこの1年では20〜30代の移住者数が伸びているという。

塩野さんとともに活動する、地域おこし協力隊の仲間も20代がほとんど。
塩野さんとともに活動する、地域おこし協力隊の仲間も20代がほとんど。

「移住してきた人は、地域おこし協力隊はもちろん、連携協定を結んだ企業から赴任してきた人や都内で働いていたけど帰ってきた人、浪江町に可能性を感じて起業する人などさまざまです。みんな経歴もバラバラですが、個性強めなのが共通点かもしれません。浪江のために何かしたいというだけじゃなくて、自分が何をしていくかを見つけたいというのもある。両方の可能性を感じているのだと思います」

東京で働いていた頃とは生活が一変した塩野さん。この町にどんな印象をもったのだろうか?

「最初に来たときの印象は駅前に何もなくて、まだ帰還困難区域もある。空の広さが印象的でしたね。でも、町役場周辺にはスーパーや道の駅、飲食店もあって、漁港も復活しました。なので、生活するうえで思ったほど不便はありません。町の人は、お互い知らない間柄でも“こんにちは”、と声をかけあうくらいオープンな人が多いですね。親切な人も多くて、この間は近所のおじちゃんにでっかい大根をもらいました。先日のゴールデンウィークで埼玉に帰りましたが、もはや浪江のほうが安心できます(笑)」

移住して半年、自分のテーマを決めて活動を始めた塩野さん。浪江町の現状を踏まえて、取り組む内容について教えてもらった。

「なみえプロモーション課の地域おこし協力隊が最終的に目指すのは、“移住定住の促進”です。とはいえ、いまの浪江町は、住宅が少なく家賃が高かったり、スーパーに並ぶのが新鮮な野菜よりもお惣菜が多かったり、プロパンガスで光熱費が高かったりと、ほかの地方自治体にくらべて積極的に移住してもらうにはまだ課題があります。ただそうしたなかで、浪江の一番の魅力は“空の広さ”。海にも山にも近く、自然環境には恵まれている。それを味わってもらえる観光コンテンツをつくって、まずは交流人口を拡大できるような取り組みをしていきたいと思います」

浪江はもう私のホーム
「近所のおじちゃんにでっかい大根をもらいました」

浪江町は生きることを真剣に考えられる場所

浪江町での活動方針について、交流人口の拡大を目的にした観光コンテンツの開発を軸にした塩野さん。旅行会社での経験が活かせることになった。

津波で被害を受けた請戸(うけど)小学校。1階の窓ガラスが割れ、津波が校舎を貫いたのがわかる。建物には津波の高さが示されているなど、震災遺構として一般公開されている。
津波で被害を受けた請戸(うけど)小学校。1階の窓ガラスが割れ、津波が校舎を貫いたのがわかる。建物には津波の高さが示されているなど、震災遺構として一般公開されている。

「たくさんの人に足を運んでもらうために、3つのことをやろうと思っています。1つは震災で何が起きたのか、いまどうなっているかを伝えていくこと。フィールドパートナーとして、中学生や企業の方を請戸(うけど)小学校などの震災遺構へ案内し、一緒に考えていきたいと思います。2つめは被災地としての浪江ではなく楽しそうな場所と思ってもらえるための観光コンテンツの開発です。いま、請戸漁港近くにキッチンカーを設けて、新鮮な魚を味わってもらうことを計画しています。最後の3つめは、福島・浜通り地域の魅力を発信するインスタグラムの運営です。いろいろとやっていけることにワクワクしています」

その前向きな言葉が示すように、浪江町で過ごした半年で働くことへの価値観が大きく変わったそうだ。

「東京で働いていた頃は、『働く=つらいこと』。会社のためやお客様のために働いている意識が強くて、お金を稼ぐために、つらいのは当たり前だと思っていました。でも浪江町に来てからは働かされているというより、自分から働いている実感がある。浪江町のための活動ですが、自分のためにもなっているんです」

改めて、塩野さんにとって浪江町はどんなフィールドなのだろうか?

請戸小学校の校舎1階。建物が被害を受けた様子がそのまま保存されている。
請戸小学校の校舎1階。建物が被害を受けた様子がそのまま保存されている。

「浪江町は生きることを真剣に考えられる場所です。それは震災で亡くなった人がいて、その教訓があること、地域おこし協力隊として自力で生きていくという両面があります。挑戦させてくれる町でもあり、何もない私でも、“やってみなよ”と背中を押してくれる。それがどんどん次のステージにつながっていきます。浪江に来るまでは、将来何がやりたいか明確には見えていませんでしたが、いまやってみたいのはライフコーチの仕事です。浪江でやるべきことをやれたら、その夢に挑戦したいと思います」

こう力強く夢を語る塩野さんも、かつては迷える大学生だった。当時を振り返りながら、夢を見つけるためのメッセージをくれた。

「私はパキスタンで生まれたクリスチャンです。パキスタンでは、女性が自由に働けなかったりする現実がある。生まれた場所で、生き方が狭められるのを何とかしたい思いがありました。キリスト教の教えである、“一人ひとりが最高傑作”というのも私が伝えたかったこと。昔から考えていたことが、ここに来てようやく1つの夢としてつながりました。

自分の経験から思うことは、誰しもその人しか持っていないものは必ずあって、経験がその人らしさをつくること。だからゆっくりでもいいから、自分の好きなもの大切なものに素直になってみてください。周りの声がうるさいと、自分の声が聞こえなかったりします。私は浪江に来て、好きなものが見つかったから、雑音から耳をふさぐことも必要なのかな。自分の気持ちに正直になって、自分の道を見つけていくことが大切だと思います」

浪江町は生きることを真剣に考えられる場所
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