泥臭さ上等、多様性ポップな演歌の花道
撮影:有泉 伸一郎(SPUTNIK)
きっかけは、祖父母にもらった500円
演歌歌手のたなかはなさんは、北海道石狩市で生まれた。物心ついた頃から演歌が大好きな女の子だったそう。
「うちのじいちゃんとばあちゃんは、ロカビリー好き。家に演歌は流れていなかったはずなのに私だけ演歌好きでした。前世で聴いていて、DNAに刻まれていたのかも(笑)。演歌は『生きるか、死ぬか』くらい極端に歌詞がストレートで、映画を1本観終わったくらいストーリーがあるのがいいですね。私は、5歳からクラシックバレエを習っていましたが、舞台に上がる前は、いつも天童よしみさんの『あんたの花道』を聴いていました」
16歳まで本気でバレリーナを目指していたものの、身体的な素質に恵まれず断念することに。幼い頃から打ち込んでいた分、ショックは大きかったというが、たまたま祖父母の前で演歌を歌ったら、500円をもらえたのを機に演歌歌手になることを決意する。
「単純ですが、やると決めたら突発的に『やるしかない!』ってなる性格です。通信制の高校に通いながら、北海道在住の演歌歌手・横内じゅん先生に弟子入りを決めました。当時は師匠の道内一周キャンペーンに同行して、ステージ周りの準備をするのが仕事でした。その後、18歳の頃に東京で開かれた水森かおりさんのカラオケ大会に出場し、編曲家の伊戸のりお先生に声をかけてもらい、19歳で上京して弟子入りしました。そこでは運転手をしてレコーディングや身の回りのお世話をして厳しく仕込まれました」
修業中には6社からデビューの話もあったほど歌の実力を蓄えていたが、さまざまな事情があって、21歳で独立する。
「アルバイトをしながらライブハウスに出演したり、病院や福祉施設で慰問活動をしたりしていました。そうやって活動していた24歳の頃、先輩のすすめでカラオケ大会に出たら、準優勝したんです。その副賞でプリンスレコードから『二人花』『夢みるエンジェル』という2曲入りシングルでデビューが決まりました。都内と台湾でキャンペーンが始まって、飛行機に乗せられ2,000人収容のホールで歌って。もう、いきなりの展開ですよね(笑)」
旅でつかんだ自信と彩り
怒涛の勢いでデビューとなったが、その後は元の活動に戻り、くすぶった毎日が続いた。しかし、温めていた思いが動き出す日がやってくる。
「当時出ていたライブハウスは、ロックバンドの人たちばっかりでしたが、おもしろがられて、みんなが私のために演歌の楽曲をつくってくれたんです。それで完成したのが『にっぽん全国かっぱ祭り』です。それができた瞬間に、『全国を巡れるかも』と思いました。横内先生のところで道内ツアーをやったのが忘れられなかったんです。そうと決めたら動き出していました」
2020年に一度ツアーに出るものの、新型コロナウイルスの蔓延により、断念。しかし悪いことばかりではなく、ライブハウスの閉店で店長の職を解雇となった元ロッカーのチバタケヒサさんが、共に旅してくれることになった。ポンコツマネージャーと呼ばれ、たなかさんに「父ちゃん」と慕われる人物との準備が始まった。
「今度はしっかり旅に必要なものを揃えてから出ようと思い、配信アプリのコンテストに出場しました。運よく準優勝して、副賞として横浜アリーナのイベントに出演したことで、テレビやラジオに呼んでもらって、少しずつ知名度が上がったと思います。その勢いでクラウドファンディングを利用して、機材を乗せられる移動車を手に入れました」
横浜アリーナのイベントに出たことは、大きな出会いにもつながった。ももいろクローバーZなどアーティストの衣装デザインで知られるトシ子ちゃんだ。
「ももクロはライブを全通するくらい好きで、トシ子ちゃんのつくるカラフルでキラキラした衣装には憧れがありました。だからイベントでトシ子ちゃんを見つけたときは、感激して一緒に写真を撮ってもらいました。旅に出るにあたっては、インパクトのある衣装が必要だと思っていたんです。どれくらいお金がかかるかわかりませんでしたが、恐れ多くも出発直前に、トシ子ちゃんに衣装の制作を依頼しました。届いた衣装はとんでもなくすごかった。着た瞬間に自分に自信がついて『たなかはなですけど何か!』という気持ちになりました。しかも、トシ子ちゃんはその衣装をプレゼントとして贈ってくれたんです。この衣装も自分の強みにしようと気合が入りました」
旅の戦闘服となる衣装を身にまとって、いよいよ2021年4月から「日本一周演歌旅」をスタート。たなかさん自身がハンドルを握り、ほとんど毎日、車中泊。マネージャーのチバさんはテント生活という過酷さ。夜中までスナックを回って眠りについても、2~3時間後には朝日で目覚めてしまう生活だ。翌朝は隣の県まで移動しなければならない日もある。しかし、どの地域でも大きな声援を受け、自信をつけていく。その裏には、二人の覚悟があったという。
「最初のうちは『演歌歌手=うまい』と期待があるから、上手に歌わなきゃという思いが強かったんです。ただ、どこに行っても褒められたので、どんどん自信がつきました(笑)。でも、『明日のガソリン代どうする?』というのがリアル。どうやって楽しんでもらってCDを買ってもらうか移動中に話し合ったり、夜中に一人で考えたりしました。やっぱり、マネージャーも巻き込んでいるし、活動に対しての責任はあります。その結果、半年で歌い方もMCも性格も変わった。『こんなに人って変われるの?』と驚かれるくらい明るくなりました」
たなかさんを最も変えた場所があったとすれば、長崎・壱岐だろう。当初は1週間だった滞在が新型コロナウイルスの蔓延により、1カ月の長期滞在となった。
「壱岐に入ったのは5月だったので、自信がついてきた頃ではありましたが、ここで思いっきり好きなようにやった方が応援してもらえることに気付きました。前は顔色をうかがったり、演歌歌手らしさに縛られたりしていましたが、自分の好きを極めている方が人は認めてくれるとわかったんです。それからは、どちらかというとパワーを与える側。たくさん応援してくれたので恩返ししたい気持ちになっています」
実際、壱岐でのたなかさんはスーパースター。観光大使の署名運動も始まっている。街を歩けば、クラクションを鳴らされたり、ちびっこから声援を受けたり、知らない人はいないくらい。そして、2021年12月現在、半年を予定していた旅は9カ月目に入っている。
誰でもない、たなかはなとして生きたい
マネージャーとの二人三脚でスター演歌歌手を目指すたなかさんだが、意外にもインディペンデントに活動することに誇りがもてたのは、最近になってからだと言う。
「演歌歌手は、演歌の芸能プロダクションに所属して大手のレコード会社からデビューして紅白に出ることが王道だといわれています。私も以前は、業界から認められていないコンプレックスがありました。でも今は、YouTubeやTikTokもあって、売れたもん勝ち。逆にフリーでやっている方が泥くささを学んだ分、強いと思います。私にあるのは、たなかはなという人間だけ。実力でいくしかない。お金をかけて守られているより、地べた這いずり回りながらの方が、見ている人もおもしろいんじゃないかなって」
一時は王道をつかみかけたこともあるのに、今は泥くさく生きることを厭わない。新生たなかはなを誕生させたのは、紛れもなくこの旅だろう。
「旅に出る前の私は、人見知りで黒い服を着て、なんかいつもイライラしていました(笑)。旅に出てからは、初めて出会う人がごはんをごちそうしてくれたり、スナックを紹介してくれたり、とにかく応援してもらえたんです。そこからは、何があっても大丈夫。ポジティブでいて、損はないと思えました。以前は、美空ひばりさんや水森かおりさんになりたいと思っていましたが、誰も同じ人を2人も求めていないということに気付いてからは、普段のヘアスタイルやファッションも自分が好きなようにやっていこう、誰でもない、たなかはなとして生きてこうと思えるようになりました」
飾りっ気なく笑う彼女には、たくましさや強さが備わっていた。
それは、誰に向けての“似合わない”ですか
旅で自分のスタイルを見つけたたなかさん。ファンに向けて、どんな存在になりたいのだろうか、その先に目指す姿とは?
「今の私は、アンパンマンみたいだなと思います(笑)。福島の旅でスナックのママに『損して得取れ』という言葉を教えてもらって、なんて素晴らしい言葉だろうと思いました。歌を歌ったり、笑顔を届けたりすると、倍以上になって返ってきます。今は『顔を食べてください』という心境になりました。将来的には、ファンの皆さんの自慢になりたいから、そのために紅白を目指して『あの子、俺が面倒みたんだよ』って言われたい。それと、ずっと目標として公言しているのはパチンコ台のCRたなかはなの実現(笑)。新時代の演歌歌手『ネオ演歌歌手 たなかはな』として唯一無二を目指します」
自分らしく生きる道を見つけたことで、出発したときとは違った未来が見えているようだ。毎日、力強く進むたなかさんの原動力についても聞いてみた。
「一度きりの人生だから、明日死ぬとなったら私はめちゃくちゃ後悔すると思います。それくらいやりたいことが見つかっているのは幸せなこと。それは仕事だけじゃなくて、こういうファッションをしたいというのも同じ。似合わないとか躊躇するかもしれないけど、それは“誰に向けての似合わないですか”って自問してみると良いかも。案外、人って他人を見てないもんね。好きなようにやってみると、その道は続いていたりするもので(笑)」
全国にいるどんな人にも分け隔てなく明るい歌声を届け、多様性ポップな演歌の花道を完成させてほしい。