イカが私を自由な世界に連れ出してくれた
撮影:有泉 伸一郎(SPUTNIK)
「生きているだけで、こんなにも美しいものか」
イカを愛するあまり、会社員のかたわらイカライターとして活動する佐野まいけるさん。フォロワー1万人超のTwitterで情報発信し、さまざまなメディアへ寄稿するほか、「いか生活」編集長として冊子を発行している。そんな彼女がイカとの出会いを果たしたのは、今から10年以上前の2010年の夏だった。
「その日は、友人に紹介された男性と葛西臨海公園にデートで訪れていました。あまり話も弾まず、気まずい思いをしているとき、出口近くの水槽で群れをなして泳いでいるアオリイカに目を奪われたんです。埼玉生まれの私は、それまで食材としてのイカしか見たことがありません。生きたイカは透明で、両側の足を広げながら不思議な動きをしていて、その姿があまりにきれいだったんです。気付けばそばに張り付いて動画を撮影し、2時間が経っていました」
その没頭ぶりで、どれだけ衝撃的な出会いだったかが伝わってくる。『いか生活』のエッセイのなかでも、「生きているだけで、こんなにも美しいものか。驚きと興奮が静かに湧いてくるのを感じた」と、述懐されている。
「イカと出会ってからは、イカの虜(とりこ)になり、動画や本を読み漁る日々が始まります。そのうち、生きたイカに直接触りたくて、やったことのない釣りにも挑戦しました。今は、日本近海で獲れる25種類のイカ釣りを目標にしています。数年前からはイカの内部を見たくて、解剖も始めました。イカの魅力は尽きることがなく、どんどん深く潜っている感じです」
そんな一人きりのイカ活動も8年が経過した頃、イカ画家の宮内裕賀氏の展示会に足を運んだことから、仲間と出会うことになる。
「展示会場で宮内さんと出会い、お互いのイカへの思いを共有しました。それがきっかけでイカ好きが集まるイカパーティーに誘っていただきました。イカの研究者や海洋アクセサリー作家など、そこで意気投合したメンバーで結成したのが『日本いか連合』です。現在、幹部5人と伝道師3人で活動し、『いか生活』を発刊したりしています。仲間ができたことで、エギング(ルアーによるイカ釣り)がうまくできるようになったり、イカタコ研究会という学会に参加できたり、いろんなことが実現しました。イカライターとして函館などイカの聖地巡りを取材するなど、イカのおかげでいろいろな経験をさせてもらっています」
同人誌『いか生活』は、いか連合のメンバーによって発行されているが、編集やデザインは佐野さんが担当している。そのためにDTPを習得したほど。1冊あたり100時間をかけて制作される労作だ。イベントや通販、一部の書店で販売されているが、さほどもうけはない。どれほど彼女がイカについて知ってほしいかが伝わる。
イカの魅力は無限大、夢中にさせてくれる存在
「なぜ、イカなのか?」これまで何度となく受けてきた質問だというが、やはり聞かずにはいられない。「5時間くらいになりますよ」とほほ笑みながらも、披露してくれた。
「きっかけは、見た目でした。イカは、1秒に満たない速度で色を変化させたり、模様を出したりできるんです。パッと光を発することもできます。ホタルイカが光ることは有名ですが、実は500種類のうち45%くらいは光ります。そんなに瞬間的に色を変えたり、光ったりするのはイカくらい。その美しさに心を奪われました。それに食べてもおいしいですよね。栄養的にも低脂肪、高タンパクで噛むことによる満腹感もあってダイエットにもなる。タウリンが入っているので、疲労回復にもいいんです。私はイカ釣りもするのですが、たくさん釣って、冷凍しても味が落ちない。お酒のつまみには自家製の一夜干しや塩辛を常に冷凍庫にストックしています」
あげだすと話が止まらない。しかし、最も魅惑的なのは、体の構造や能力にあるという。
「イカは貝類の親類で、今でも身体のなかに甲や軟甲と呼ばれる貝殻をもっています。つまり、外側にあった殻を体内に格納して、自由に泳いで餌をとりに行くスタイルに進化したんです。アグレッシブでかっこいいですよね。それから、頭足類といって頭から足が生えているクールな姿をしていて、脳の真ん中を食道が通っていて餌を流動食にして食べているところなんて、非常にトリッキーです。知能もあって、脊椎動物と比べても脳が大きく、人間と同じカメラ眼という仕組みで目がいい。ですから、仲間内では宇宙人が送ってきた高性能なデバイスなんじゃないかと冗談で言い合っています」
彼女のイカへ向ける視線はどんどんディープになっていき、今夢中になっているのは、イカの解剖だとか。
「大好きなものの中身をよく知りたいという気持ちの表れだと思います。釣ったイカをスマートに、素早く、美しく解剖できるとうれしいですね」
解剖は彼女にとって、イカの全てを見たいというひたむきな愛情の表現方法なのだろう。もちろん、解剖した後は調理して食べ、余すことなく味わっているそうだ。
イカと出会って解放され、強くなれた
イカという“推し”を見つけたことで、いきいきとした日常を手に入れた佐野さん。しかし、彼女にとってイカはそれだけで表せない存在だということを教えてくれた。
「イカに出会うまでの私は、何もない人間でした。休みの日は寝ているだけだったので、『休日は何をしているのか』という質問は怖かったですね。子どもの頃に昆虫や釣りが好きで、とったものを学校に持っていったら、気持ち悪いと否定されたことがあったりして、自分の気持ちを封じてきました。加えて、セクシャルマイノリティなので、本当の気持ちを隠さなければいけない場面が多かったです。セクシャリティや本当に好きなものがもし周りにバレて否定されたら、今度こそ立ち直れないと思っていました。周囲から評価されやすいように必死で勉強して、がむしゃらに働く毎日で、好きなものについて考えないようにしていたのですが、そんなときにイカと出会ったんです。イカが好きなものへの気持ちを、解放してくれました」
自分をなくして生きてきた彼女の呪縛を解いたのがイカだったのだ。好きなものができたことで、得られたものも多かったという。
「好きなことに向けては夢中になって情熱を注げるので、自分の世界も広がり、高めていけます。もともと文章は好きで、イカのことを伝えるために再開しました。DTPや動画編集も勉強し、自分のスキルとなっています。いまだに人見知りではありますが、コミュニケーションも慣れてきました。いろんなバックグラウンドをもつ日本いか連合のメンバーとチームを組むことで、できることにも広がりが出てきたと思います」
他人が好きなものを、自分が好きじゃなくても大切にする世の中になってほしい
好きを追求するパワーは自分や周囲の仲間だけでなく、ときとして見る人にもパワーを与える。彼女には、イカへの愛がTwitter上でバズり、一晩でフォロワーを2,000人から1万人に増やしたエピソードがある。
「きっかけになった投稿は、私と5種類のイカをドラマの人物相関図に例え、みんなが私に解剖されたがっているというものでした。イカからモテているような表現が好意的に受け取られたのは、うれしかったですね。好きなことを発信する行為は、自分も楽しいし、受け取った側も楽しいし、オーディエンスも楽しい。『三方よし』が実現できていると思います」
好きなものをまっすぐに追求する姿は、まぶしい。しかし、彼女もかつては自分の好きなものを隠してきた過去がある。
「変わったものを好きでいたり、セクシャルマイノリティだったりすると、マジョリティにとって存在しないものと思われがちです。実際は隠している人も多いので、『そんな人、実在しないよね』というふうに片付けられてしまう。まるで透明人間ですよね。それが蓄積されると、深い傷になります。でも、イカを発信するようになった今は、自分の“好き”に否定的な反応があっても、以前のように深いダメージを負うことはなくなりました。むしろ楽しんでいることを見せつけてやろうというくらいの気持ちでいます(笑)。他人が好きなものを自分が好きじゃなくても、大切にする世の中になってほしいですね」
イカを好きになったことでブレイクスルーを果たした彼女。どうやったらそんなに強くいられるのだろうか?
「自分が好きだという気持ちを確認すると、自分がブレない。そうするとどんなことにも耐えられます。自分の好きは個性です。個性とは世界を見るためのフィルターだと思っています。私はイカライターやITエンジニアやセクシャルマイノリティというフィルターがかけ合わさってできています。それを通じて見えたものを発信していくことで、外からのフィードバックがあって、また一つ自分のフィルターが増えていく。すると、世界が広がり人生が豊かになります。何より、そうした世界は楽しいんです」
人生、楽しくなってきた。心の動きを封じず、自分の気持ちを確かめることで強くなれる。イカはそう教えてくれた。