自分でつくった焼き芋の世界は生きやすい
「ダメな自分しかない世界なんて変えてしまえばいい」
撮影: 芹澤裕介
憧れの焼き芋に手を伸ばしてみた
「いも子さん」の愛称で呼ばれる村田洋子さんは、埼玉を拠点に焼き芋の移動販売をしている。近年は、行列ができるほどの人気を博し、開業希望者がそのノウハウを知りたいと全国から詰めかける。しかし、28歳だった16年前まで、社員食堂で働くフリーターの一人だった。
「このままでいいのかなと思ってはいました。けれど、勉強ができるわけじゃないし、資格もない。それに、子どもの頃から忘れっぽかったり集団生活が苦手だったりして、まともに就職できると思えなかったんです。調理の仕事は好きだったので、カフェとか自分の城を持ちたいというのが当時の夢でした」
その頃、高齢になる両親の介護との両立が厳しくなり、社員食堂を退社。ハローワークの職業訓練で活路を見いだそうと、フードサービス起業家コースに通う。そこでは簿記や接遇は教えられるものの、起業のノウハウは教えてもらえなかった。そんなときに立ち寄った古本屋で、移動販売というビジネスがあることを知る。
「カフェを出すとなると開業資金は1000万円くらいかかります。それに調理はできても、店の内装やメニューづくりまでする自信はありません。でも、移動販売ならそこまでお金はかからないし、なんとかなるだろうと思えました。移動販売をするとなったら、何を提供するかも肝心です。古本屋で本のページをめくって、クレープやベビーカステラ、パン……と眺めていてもぴんときません。でも、『焼き芋』というページを発見したときに、『やってみたい』と思ったんです」
村田洋子さんが“いも子さん”への一歩を踏み出した瞬間だった。彼女にとって、焼き芋は憧れの存在だった。
「焼き芋って、お小遣いで買うにはちょっと高価なおやつだったんです。貧乏だったので、お母さんに言ってもなかなか買ってもらえず、私にとっては特別なものというイメージでした。実は、一度だけ高校生のときにバイト代で焼き芋を買ってみたことがありました。でも、楽しみにしていたのに、おいしくなかった。そのときのことを思い出して、『だったら、私の理想の焼き芋屋をやってみよう』と思ったんです。自分ならこうしよう、ああしよう、というアイデアがすぐに降りてきて、やってみたいことが頭の中に広がっていきました」
SNSの世界では、失敗も自分のダメなところも、強みにできる
しかし、始めた途端に苦難が始まる。憧れでスタートしたために、実情がわからなかったのだ。
「今思うと、何も知らないから勢いで始められたんでしょうね。だから、『軽トラとリヤカーだったらリヤカーの方がかわいい』、『石焼きと壷焼きなら壷焼きが良さそう』とか、そんな調子で全てを決めていました。そうやってできた焼き芋は、当然ながらおいしくない。調理師としての感覚だけで動いていましたが、焼き芋の正解が分かっていなかったんです」
そんなとき、何気なく当時流行っていたSNS「mixi(ミクシィ)」に自身のことを書き込んだ。
「焼き芋と関係なく所属していたグループで焼き芋屋のことを相談したら、『おいしくない焼き芋屋を立て直そう』みたいになりました(笑)。埼玉の戸田には、親切な人が多かったんですね。みんな、知っている焼き芋の知識をアドバイスしてくれたり、近所で見かけたら声をかけてみる、とか言ってくれました」
ミクシィの声のなかには、「塩水につける」というようなトンデモアドバイスも多かったが、何でも試行錯誤していったことが功を奏し、徐々に味も評判になっていく。さらに、仕入れるさつま芋の質も変わっていった。
「最初の年に仕入れたさつま芋はスジが多かったんです。見かねたお客さんが農家さんを紹介してくれて、素材を変えたことで味が格段に変わりました。それからは良質なさつま芋を生産している農家さんを探すことに力を入れ、無農薬でさつま芋を育てている農家さんに出会えました。焼いてみたら本当においしかった。この頃から『食べ飽きないおいしさ』を大切にする味の目標ができあがりました。現在は、時期によって産地や農家さんの芋を変えて、いろいろな種類のさつま芋を扱っていますが、この基本は変わっていません」
開業して4年が経過した頃には、点と点でしかなかった移動拠点がつながり、円のようになっていった。SNSの果たす役割は、いも子さんの魅力を発信するものに変わっていく。
「活動拠点を徐々に広げていきましたが、ときどき失敗してしまうクセは相変わらずでした。そんな失敗談をFacebookに投稿したら、『いいね』がすごくついたんです。普通に生活しているときにダメだと言われていたことが、SNSの世界では魅力になる。『これでいいんだ』と思えたし、笑ってくれることが認めてもらえるようで、うれしかったですね。もちろん、営業情報や仕事への思いも投稿しましたが、人間的な部分も発信していった方が良いんだなと思いました。この考え方が『阿佐美や』の見せ方や開業講座でのブランディング講座につながっています」
歳月をかけて味わいを完成させ、自身の個性を店の魅力に変えていったいも子さん。開業当初は、「まずいから、もう来ないで」と辛辣な言葉を浴びせられたこともあったというが、めげずに憧れの世界にトライすることで、自信を獲得した。しかし、途中でくじけることはなかったのだろうか?
「最初の年はうまくいきませんでしたが、次の秋を迎える頃にはお客さんが『今年はいつ、やるの?』と声をかけてくれて。できないながら、応援してくれる人がいたんです。お客さんが喜んでくれることはかたちにしてみたいし、一緒に思い出がつくれると思ったら楽しくて。この時間を大切にしたいと思ったんです。普段の生活でこうはできませんが、焼き芋の世界なら頑張れた。小さくてもゆっくりでもいいから、自分の世界を広げていこうと思ったんです」
真っ直ぐ、好きなものに向かう人のことは応援したくなる。いも子さんの純粋な思いはいつしか求心力となり、本人の原動力にもなっていったのだ。
踏み出す瞬間、ゴール設定はいらない
自分で道をつくり、焼き芋の世界を広げてきたいも子さん。16年を振り返って、一番のターニングポイントになったのは、踏み出した瞬間だったと振り返る。
「私の場合、高校生の頃から青春は短いだろうと自覚していました。両親が高齢だったので、本格的な介護が始まる前に自分の道を見つけないと後悔するという思いが漠然とあったんですね。だから、焼き芋の移動販売にぴんときたときはすぐに踏み出しました。当然ながら、着地点はふわっとしたまま。目標もなく、『楽しそう』で始めました。でも、ゴール設定をあれこれ考えるより、踏み出すと決めることが何よりも大事だと思います。踏み出さない限り、何も始まりませんよね」
どんな一歩であろうと、まずは踏み出すこと。ゴールを設定しないことは踏み出す迷いを振り切るだけでなく、もう一つのメリットがあるという。
「ゴールを決めなければ、何があっても失敗じゃないんです。だって、前に進んでるじゃないですか。それに意味のない失敗なんてないと思う。私は正解が分からなくて遠回りしましたし、まずいと言われたこともありました。でも、失敗しながら自分で正解を確認することが大事なんです。まずは、自分でやると決めて自分でレールを敷いてみてください。踏み出した先には知らなかった世界があって、その瞬間、自分の世界は広がっているんです」
頑張ってつくり上げた世界は、生きやすい
現在は、自分の世界で輝くいも子さんだが、フリーターの頃は不満だらけの毎日だったという。
「当時は、誰かが敷いたレールの上を歩いていて、みんなと同じようにやりたいのにできないことにいら立って、なんでこんなレールを敷くんだろうと思っていました。その道を選んだのは自分なのに。すごく受け身ですよね。結局、人のせいにしていたんです。今になって思うのは、あっちに行きたいと思えば、自分でレールを敷いて行けばいいんですよね。別にゆっくりでもいい。自分でやることが大事で、その方が生きやすいんです。何か失敗したときも、自分の責任だから意味を見いだせるし、次にこうすればいいと考えられる。自分で解決できるということが生きやすさにつながるんだと思います」
いも子さんが“村田洋子”に戻れば、妻であり、二児の母でもある。実は彼女は、家事も苦手で子どもの学校や地域の集まりに顔を出すのも得意ではないという。
「今でも焼き芋以外の世界ではダメな自分だし、全然頑張れません。だから、得意なことを伸ばしていこう、自分の世界を広げていこう、と思えたんでしょうね。自分が頑張ってつくった世界は楽しいものです」
「子どもの頃、お風呂屋さんに行くと、番台のおばさんが、私の愚痴を聞いてくれました。それがとてもうれしくて。身の回りにそんな大人がいてくれたことで、地元を自分の街だと思えました。今、私も地域の子どもたちと一緒に、さつま芋を育てる農業体験をやったり、夏場には人力発電かき氷を手伝ってもらったりしています。子どもたちに伝えたいのは、自分の道は自分でつくれるということ。学校に行って就職するだけが全てじゃない。これでも私は社長なんだよ、こういう生き方をしている大人がいるんだよ、と知ってほしい。心がくじけたときに、ああいう人もいたな、と思い出してくれるといいなと思います。そして、自分を幸せにする世界を自分でつくれる大人になってほしい。楽しそうに働いている姿を見せていきたいですね」
ダメな自分しかない世界なんて変えていけばいい。自分が生き生きとする世界は自分でつくれる。それも、好きなことに熱中する力で。次世代を担う子どもたちに伝える一方で、過去の自分に語りかけているようだった。