目が見えなくなってみつけた
浅井純子の超ポジティブでボーダーレスなセカイ
撮影:有泉伸一郎(SPUTNIK)
元気な私が30歳で突然目の病に
大阪市で生まれた浅井純子さんは、中高生を私立の女子校で過ごした。どんな学生時代だったのだろう?
「とにかく勉強と運動が大嫌いでした。中高は、大学まである女子校でしたけど、アホだから大学に上がる推薦をもらえなかった(笑)。三つ受けた短大も、最初の二つはダメ。最後のひとつが一番難しい学校だったんですけど、間違えて偏差値の高い栄養士科に願書を出してしまって。諦めて問題も読まずにマークシートは鉛筆コロコロ。でも結果は合格。先生に強運の持ち主だと言われました。短大に入ってからは、ドレッドヘアで声がとにかく大きい学生。間違いなく目立っていました。代返を頼んでも『無理やし、すぐバレる』と却下されるほどでした(笑)」
そんな具合の、ちょっと元気でおしゃべりな女の子も就職し、夫となる男性に出会い、29歳で結婚。ハワイで結婚式をあげ、新婚生活を始めた30歳の頃、目に痛みを覚える。
「モーレン潰瘍という病気で、すぐに角膜移植の手術が必要だと言われました。でも、病気になって最初の1、2年はよくわからない状態だったんです。若い人がかかる病気でもないし、全盲になることもあまりない。目の病気は、体がしんどくなるわけじゃないから、大変な病気という実感がないんです。でも、若いから細胞が活発で進行が早くて、手術や治療をやってもやっても、追いつかない。言われるがままオペをして、治療して、という感じでした」
実際に31歳からの5年間は、角膜移植を繰り返しながらの治療が続く。週に二回の通院では、痛みに耐えて眼球にステロイド注射、自宅に帰れば飲み薬や5分おきの目薬、角膜が合わなくなってくると手術……。初めての手術から2、3年後には、色しか識別できなくなっていた。
「当時は、心の中に神様がいて、“なんで神様は試練ばかり与えるの?”と、自分に問いかけていました。見えなくなるかもしれない、とわかってくると、落ち込むというよりも、『生きててもしょうがないかな』と思ってくるんです。皆さんと同じように、見えてるセカイも知ってるから、見えなくなることを想像するのが一番苦しい。生きててもおもしろいことなんてひとつもない、死んだらラクやろか、と考えていました」
マンションの2階に住んでいた浅井さんは、エレベーターに昇って屋上から飛び降りようと思いつく。
「その頃は、いつも夫に手引きしてもらっていたので、一人で歩いたことがありません。壁づたいに歩くのはとにかく大変。やっとエレベーターまでたどり着いたんですが、今度は屋上のボタンがわからない。いまだったら点字もあるんでしょうけど、どのボタンが屋上なのか、もしかして非常ボタンかもしれない。『わからんやん』と思って諦めました。今度は、車の前に飛び出そうと思ったんですけど、なかなか車道にも行けない。いろんなことを考えて、『もう無理』と思って帰ろうとしたら、今度は必死に帰る自分がいたんです。その瞬間、人間は“いろんなところで必死になるんや”と思って。別に死ぬことに必死にならなくても、生きることに必死になった方がいいなと思いました」
全盲の視界は、真っ暗ではなく、“真っ白”
36歳になると、浅井さんの目は角膜すべての移植が必要な状態になり、全層移植という難しい手術をした。しかし、移植する部分が大きかったため、拒絶反応が起きてしまう。37歳の秋には、日本で7例目、浅井さんの病気では初となる人工角膜手術を決断。手術は成功し、浅井さんの目は少し見えるようになった。
「少しでも見えるようになると、何かやりたいと思うんです。働きたいと思っていた私は、鍼灸あんま師の資格を目指して盲学校の受験を決意。猛勉強して半年後には入学していました。ある日の授業で白杖の訓練がうまくいかなくて、『先生、私は人に聞くわ』と言ったら、『それができるのが一番いいんだよ』と言われたんです。私はそこで初めて、普通は恥ずかしくて人に聞けないんだとわかりました。そういえば、盲学校のお友達は声の小さい人が多いけど、私は声も大きい。私はほかの人よりもポジティブなんやと思いました」
あんまの資格を取得して盲学校を卒業した浅井さんは、アパレル会社のマツオインターナショナルにヘルスキーパーとして入社。入社して2ヶ月が経つ頃には、欠けて黒くなっていた視界に、さらに白さがのるようになっていた。手術の繰り返しで、緑内障を併発していたのだ。
「もうそろそろ、視力がなくなるだろうと思っていました。でも、この時期になると悲しくはなくて、視力がなくてもやれることはたくさんある、という考えになっていました。入院中、私は盲導犬をもつことを決めて、やってきたのがヴィヴィッドです。訓練生活の1ヶ月を経て、晴れてパートナーになりました。出かけるときは、会社へも一緒に出勤しています」
ヴィヴィッドが来てから半年が経った頃、とうとう浅井さんの視界は真っ白になる。光はわずかに残っていたが視力はない。それでも通院や目薬は必要となる。それについて先生に相談すると、緑内障が酷かった右目は、義眼を提案された。義眼にすると、通院や目薬は必要なくなるが、角膜は細胞ごと取り除かれるため、もう目は使えなくなる。
「私は、まだ細胞が使える可能性のある左目も義眼にしてください、と言いました。先生には『後悔するかもしれないからよく考えて』と言われましたが、私は『絶対に後悔しない』と言って、誰にも相談せずに一日で決めました。多分、そこが超ポジティブになれたきっかけだと思います。気づけば、私は15年間、目が使えなくなる不安と闘っていたんです。でも、失うものはないと思ったとき、自由になれた。スタート地点に立てた気持ちになったんです」
浅井さんの全盲の視界は、真っ暗ではなく、“真っ白”だったそう。
人によってこの色は異なり、脳の残像が表れるとも言われる。そう説明してくれた後、浅井さんは茶目っけたっぷりに、「私、純白なんです!」と笑わせてくれた。
人間関係はボーダーレス
セカイがもっとひろがった
全盲になってからの浅井さんは、盲導犬のヴィヴィッドをパートナーに、どんな日常を過ごしているのだろうか?
「今、仕事はコロナで週1勤務になっていますが、普通なら週5日で働いています。幸い職場がアパレルなので、洋服は全部手でさわって色を聞いて、じっくり選んでいます。買い物は、心斎橋で食器やアロマを買いますね。習いごとは5つあって、ウクレレとアコーディオン、ボイストレーニング、社交ダンス、パーソナルトレーニングを受けています。家事も普通にやっています。そんななかで、今一番時間がかかるのはSNS。読み上げ機能を使って音声入力してますが、人の2、3倍はかかってますね。でも興味を持ってコメントを書いてくれているので、返さないというのは私のなかではないんです」
生活のなかで、見えていた頃から最も変わったことといえば、人間関係だと言う。
「今までは、初対面の人に対して“きれいな人”とか“立派な職業の人”とか先入観があったはずですが、今の私にとっては、話してみて気が合うかどうかがすべて。言われて気付いたんですけど、見えなくなってから知り合った人の年齢や職業、性別、国籍は気にならなくなったんです。ジムのトレーナーさんが、日本語ペラペラだったので気づかなかったけど、外国人だったということもあります。でもその方が幸せなんです。声の感じでどういう雰囲気の人かはわかります。今の方が、人間関係はむちゃくちゃラクですし、充実しています」
ボーダーレスになり、以前よりもセカイがひろがったという浅井さん。自分自身に対しての評価も変わっていったそう。
「今は、自分のことが大好きなのが大前提です。“私なんて”という言葉は、私の中にはありません。障がいがあったら生きるのが大変なので、強く生きないといけない。自分がやることは自己責任、人のせいにはしません。講演したり、本を書いたりして自分自身を振り返る機会も多いですが、今に満足してないし、まだまだやってやろうと思ってます」
強く生きる秘訣は、自分を大好きになること。必死に生きようと思ったから見出せた答えだろう。浅井さんは、どんなときでもメイクやファッションに手を抜かず、ヴィジュアルを大事にしている。その理由は、「ヴィヴィッドと歩いていたら目立つから、そのときに背筋を伸ばして自分に恥ずかしくないようにしたいんです」と教えてくれた。目が見えない人にとって、メイクやファッションは“努力の上”にある。自分を大好きでいる努力は、日々積み重ねられている。
夢は持たない、すべて叶えるために目標を立てるだけ
超ポジティブになってからの浅井さんは、色々なことにチャンレジしている。そのひとつが、全盲ペアによる社交ダンスだ。
「きっかけは舞台のオープニングアクトで踊るためでした。全盲同士の社交ダンスは、競技会で禁じられているので、人に見てもらうために始めました。普通、社交ダンスは目で見て動きを覚えます。口で伝えてもらってその動きをするのは想像以上に難しい。でも、だからこそやり遂げたい。私が社交ダンスをやってみんなが見てるのを想像したら、ニマニマーとなってくるんです。全盲でもこんなに楽しくできる。 “この人見てたら楽しいやん。もっと楽しく生きていこう”と思ってもらえたらいいですね」
浅井さんが続けているチャレンジはもうひとつある。それが、小学校へのゲストティーチャー。子ども達に全盲のセカイを伝えている。
「目が見えない人や、盲導犬のことを知って欲しくて始めました。もう、大阪の小学校に死ぬほど電話しました(笑)。海外では、障がいがある人に声をかけたり、盲導犬を連れて店に入れたりするのに、日本ではまだまだです。私の場合は色々と言えますが、若い子は一度拒否されたら、もう盲導犬を連れて歩きたくないと思ってしまうかもしれない。目立ちたいとかじゃなくて、広報活動なんです。障がいがある人や盲導犬が、当たり前に過ごせる世の中になってほしいですね」
年々、ポジティブさを増していく浅井さん。これからの夢を聞いたところ、「夢は持ちません」とキッパリ。その真意は?
「私に夢はなくて、実現可能な目標を立てて、それを叶えていくだけなんです。今の目標は、阪神の始球式に出てヴィヴィッドとマウンドに上がることです。ヴィヴィッドが尻尾ブリブリ振りながら出てきて、オバハンが投げるってありえへんでしょ(笑)。もちろん阪神の選手に会いたいのはありますけど、マウンドに私とヴィヴィッドが出てきたら、いつも一緒なんやな、とわかってもらえる。大阪のテレビでそれを話したら、もう球団マネージャーに話がいってるみたいです。だから叶えられると思います。それから本もたくさん売れてほしいし、野望はいっぱいあります。次は、日本武道館で社交ダンスもいいですね」
必死に生きると決めたことで、新しいセカイを見つけた浅井さん。立ち止まってしまいそうな人に送るメッセージを聞いた。
「私を見ていたら、チャンスは降ってくると思われるかもしれませんが、障がいがあるからチャンスが多いわけじゃない。みんな平等だと思います。機会を掴むか掴まないかは、自分次第。他人の目が気になるかもしれませんが、案外、他人のことなんて誰も見てないんです。特に若い人は、人目なんて気にせずにチャレンジしてほしいですね」
「だって、生きてるんやから、やらないと損やん」