私にとってのバリューは車椅子、「私、車椅子。珍しいでしょう?」っていう感じ
撮影:有泉伸一郎(SPUTNIK)
音楽に出合った幼少期、社会に出てからの暗黒期
曽塚さんが音楽の世界を目指したのは、母親がピアノとエレクトーンの講師をしていたことがきっかけだった。音楽が身近にある環境で生まれ育ったため、楽器を始めたのはごく自然な流れ。後に「シンガーソングライター」としての道を志したのも、やはり母の影響が大きかったという。
「私、子どもの頃に歌だけ褒められなかったんです。母は音楽に対して厳しく、ピアノを弾く母の傍で歌いながら、もっともっともっとうまくなって、いつか上手だねって言われるようになりたいと思ったんです」
中学校ではオーケストラ部に入りヴィオラを担当。また、当時周辺でロックが流行っていたこともあり、中学高校とバンド活動に興味を持ち、いつか音楽で食べていければいいな、という思いは昔から漠然とあったものの、現実的な目標としては捉えていなかったという。
「医者を目指したり、美術系を目指したり、やりたいことはたくさんあったんですけど、昔は、飽きたりしたらすぐ投げ出してしまうタイプだったので(笑)。進路には相当迷走してましたね」
美大に行くのを諦めて上京、一般企業に就職するものの、その当時を「暗黒期だった」と振り返る。
「家を出て、帰ってきて、洗濯をして、寝て、という日々の繰り返し。本当に生きていくことに精一杯で、趣味に打ち込む余裕もありませんでした。何が辛かったって、今までの人生で面倒くさくて避けてきた問題が、全部ふりかかってきたことです」
自分が本当にやりたいことは何なのか、得意なことは何なのか、見定まらずに迷いを抱えたまま迎えた社会人生活は、曽塚さんにとって大きな負担となった。そんな矢先、曽塚さんの身にさらなる災難がふりかかる。
「え、私まだ歩けてない」
ある日、駅の階段から足を滑らせ、転倒した曽塚さん。事故当時の記憶は全くなく、気が付いたらベッドの上だったと語る。生死をさまよう体験をしたのち一命は取りとめたものの、身体に残ったダメージは大きかった。
「脊髄の腰椎L1損傷。L1というのは、腰椎の一番上の部分のことです。私の場合は不全麻痺というもので、腰から下が完全に分断されたわけではないので、左足は動かないんですけど、右足は足首や指先も少し動かせるまでには回復しています」
はじめは、歩けるようになるだろうと考えていた曽塚さん。しかし、現実は違った。
「寝返りも打てない状態から少しずつリハビリをするようになり、車椅子に乗れるようになってからは嬉しくて、時間をかけて病院の売店に行ったりしましたね。ただ、その時は退院する頃には歩けるだろうって、当たり前に思っていました。でも途中から『これって障害残る系?』って不安になってきて、最後は人に止められてもがむしゃらにリハビリをしていました。周りに、『障害は残るかも』と言われても信じなかったんです。一年後、最後に入った病院で『じゃあ、そろそろ退院を』という話が出た時に『え、私まだ歩けてない』って思って。実際に退院してから『あ、これマジなんだ』と理解して、そこから急激に落ち込みました」
直後は、毎日ベッドで泣き腫らす日々が続いたが、ある日、曽塚さんの中でスイッチが入る。
「結局、負けず嫌いなんですよね(笑)。このままでいられるか!と考えて、車椅子で行ける場所を鬼のように調べました。結果、行先に選んだのはロンドン。もともと海外旅行が好きだったのと、ジャポニズムを研究している妹が当時イギリスによく行っていたこともあり、妹についてロンドンに行くことにしたんです。妹や知人とバリアフリーのホテルを探すなど、下調べはかなりしましたね」
一生、海外旅行に行けないかもしれない。そんな不安もあったせいか、このロンドン旅行の体験は曽塚さんの中の自信をグッと高めることになった。
車椅子コミュニティから始まったミュージシャン活動
自分の足で歩いて退院することをイメージしていた曽塚さんにとって、車椅子は当初、負の象徴でしかなかった。しかし、その印象はすぐに転換する。
「車椅子ユーザー、特に日々アクティブに行動する若いユーザーは、サイズや機能など、自分に合わせてカスタマイズした車椅子に乗ることが一般的なんですね。私自身もオーダーメイドの車椅子を発注したのですが、色をどうする、キャスターをどうすると打ち合わせを重ねていくうちに、なんかだんだんと楽しくなってきて。“私だけの愛車”みたいな気持ちになってきたんです。そこから車椅子に対するイメージが変わってきて、いつの間にか車椅子が届くのが楽しみになっていました」
同じ車椅子ユーザーとしての悩みを抱える人たちとの出会いも、曽塚さんの世界を広げてくれるきっかけとなった。ミュージシャンとしての道もそんなつながりから始まった。
「当時お世話になっていたコミュニティ団体から『歌をつくらない?』と言われて、『つくるー!』って(笑)。私はもともとオタクで、ゲーム音楽が好きだったので、友だちのために趣味でインスト(インストゥルメンタル)の曲をつくるということはあったんです。でも、歌入りで曲をつくったことはなかったので、すごく新鮮で」
楽曲制作の楽しさに目覚めた曽塚さんは、そこからシンガーソングライターとしての活動を本格化する。制作スタイルは曽塚さん曰く「究極の自作自演」。作詞作曲はもちろん、MVの撮影もスタジオの確保から、衣装のスタイリング、撮影用の小道具の準備、撮り終わった後の映像編集も全部自分で行うDIYスタイル。現在は音楽事務所に所属し、新しい作風への挑戦や、楽曲のクオリティ向上に努めていると言う。
「私の曲ってあんまり爽やかではないですよね、優しくない。闇が深いと言われることもあるんですけど、自覚はなくて。でもそれは偽らざる自分を表現してきたということでもあるんです。でもこれからは、人に届ける表現力というのも磨いていきたいですね」
自ら雑誌編集部に売り込み、車椅子モデルの価値を提案
音楽制作と並行して、曽塚さんはモデルの仕事もしている。活動としての転機となったのは2021年、女性誌の『CLASSY.』編集部に売り込みへ行ったこと。
「大手事務所のモデルさんも雑誌社に営業をされているということを聞いて、自分もやってみようと思ったのがきっかけでした。気持ちとしては“殴り込み“に行ったという感じで(笑)。ドキドキしたけど、すごく温かく迎えていただきました」
リングノートにペンで手書きした資料を、テレビのフリップのようにめくりながらプレゼンをしたという曽塚さん。その手法もユニークだが、結果的に編集部の心を打ったのは、プレゼンの内容そのものだった。
「私は、メディアのマジョリティ視点の既存の状況を否定したいわけではありません。ただ、今の世の中の状況では、見落とされていることもあります。そこをすくいとって、車椅子のモデルを起用することで、雑誌にとってどのようなメリットがあるのかを伝えました」
曽塚さんが提案したのは、座っている姿勢でのコーディネート、通称・すわりコーデ。日々のコーディネートに困っている車椅子ユーザーだけでなく、リモートワークで長時間椅子に座っている人たちにも、潜在的な顧客層としてリーチできることを訴えた。
「編集部の方々には好意的に捉えていただき、採用していただきました」
人との違いがバリューとなる、車椅子だって同じ
車椅子ユーザーとして日常生活を送り、表現活動を行う中で、曽塚さんの車椅子に対するイメージは180度、変化したと言う。
「最初、私にとって車椅子は、大げさな言い方をすると“牢獄”のようなものでした。でも、車椅子のおかげで視野がひろがり、どこまでも行けるんだと思えるようになってからは、“味方”になりましたね。今後は車椅子なしでも撮られるモデルさんになれたらいいなと模索はしていますけど、車椅子が私のキャラクターの一つであることに変わりはありません。例えば金髪の女の子がいたら金髪を売りにするように、背の低い人がそれを売りにするように。背が低いといっても、ちょっと低めなのか、すごく低いのか、ちょっとずつ違いがあって、その違いが全部バリューになってくる。私にとってのバリューは車椅子。『私、車椅子。珍しいでしょう?』っていう感じなんです」
曽塚さんは、自身の表現活動を通じて伝えていきたいことを次のように語った。
「周りに、身体に障害のある友だちがたくさんいるんですけど、やる前から何かを諦めている子が多いなと思っていて。そういう姿を見ていると、すごく寂しい。だから、何かやりたいことがあるのに、どうせ無理と思っている人たちに対しては『みんなやろうぜ!』と言いたい。誰かが先人を切って草を踏み分け、道をつくれば、後から来た人が通れるようになるじゃないですか。私の姿を見て『あの人ができるのなら、私だって』とトライするきっかけになってもらえたら嬉しいですね」
最後に、ちょっとかっこいいことを言いますね、とはにかみながら前置きした曽塚さん。
「私が日本を、活性化させたいと思っています」
このメッセージが決して大げさではないことは、曽塚さんの歩んできた人生そのものが物語っている。