激動の70年の先で。
「クマ」を取りクリアになった眼差しで
地域活性や環境美化に取り組む日々
撮影:森山 越
養子先からの出戻り、実業団での挫折、仕事での栄光と自殺未遂…波乱万丈な半生
74歳の米澤さんは、不動産管理会社の代表として、またNPO法人の代表としても精力的に活動中。5年前に再婚もして充実した毎日を送っているが、ここに至るまでは激動の人生だった。
「出身は富山県の山沿いの町です。家族にはかわいがってもらいましたが、4人兄弟で末っ子の私は、父が病気で倒れたこともあり、小学校2年生で叔父の家に養子に出されたんです。厳しいしつけに耐えられず3年で出戻ると、実家でもまた祖父に激しく叱責される日々で、心と体が病んだこともありました」
中学卒業後は、早く実家を出たいという思いもあり、大手メーカーに附属する全寮制の訓練校へ。小学校から続けてそれなりに活躍していた剣道の腕を生かし、特待生として実業団に入る条件で合格したものの、そこは全日本でも優秀な成績をおさめる強豪であり、今までの部活動とはレベルが違った。
「毎日、死ぬかと思うくらい厳しい稽古で、半年ほどで身も心もボロボロになりました。とはいえほぼ家出同然で出てきているし、帰る場所はない。これからはしっかり勉強して、チャンスを掴んで生きていこうと覚悟を決め、寮で同室の優秀な先輩に教わって学習に励むようになりました」
訓練校を卒業して勤務した工場は待遇がよく、寮の自治会長としても活躍したが、組織を出て働きたいという思いが募り、独立の可能性を探るため22歳でスポーツ用品店に転職。ここで米澤さんは営業職の楽しさに開眼し、さらに同業他社に転職してからは、新店舗の店長としてナンバーワンの売り上げを実現。さらなる新店舗オープンの指揮もとるなど手腕を発揮した。
その後、家族と過ごす時間を捻出するため31歳で辞表を提出すると、太陽温水器の代理店、トラック運転手、タクシー運転手を経験。知り合いの縁で再びスポーツ用品販売の手伝いを始めるが、会社が倒産してしまう。しかし米澤さんは今こそ長年思い描いてきた独立のチャンスだととらえ、在庫処分を引き受けたことを機に始めた貿易の仕事で大成功する。貿易関連の法律が変わったのをきっかけに会社をたたんだ後は、在庫と不動産を売却したお金で投資用のビルを購入した。50歳のときだった。
「50歳でリタイアできるだけの財産を築けたと言えば聞こえはいいのですが、サラリーマン時代は家には寝に帰るだけの生活で、独立してからも商売で騙すか騙されるかという人間関係に心を蝕まれ、自殺未遂をしたことも2度あります。いずれも仕事で大成功したタイミングで、この先落ちていくのが怖い、家族に多くのものを遺せるうちに、という気持ちからでした。2回ともたまたま早く発見されて助かりましたが、ここまで生かされたのは不思議な気持ちなんです」
20代でかつらを装着、30代で入れ歯を使い、現在は総インプラントに
若い頃から精神面での苦労を抱えがちだった米澤さんだが、外見的な悩みも常にあったという。
「小学校から20代前半まで続けた剣道は、稽古で面をつけるので頭がとても蒸れました。仕事のストレスもあって、24歳の頃にバサーッと一気に髪が抜け、額がかなり後退してしまい、かつらを被るようになりました」
趣味としていた社交ダンスは上達したが、踊る時も恥ずかしくてかつらを外せなかった。汗をかいて頭が蒸れるので、余計に抜け毛がひどくなった。
また米澤さんは極限まで疲れると、歯茎が浮いてきて歯が抜けてしまう体質でもある。
「仕事が忙しかった時期に歯もストレスで抜けてしまい、忙しいことを理由に歯医者に行かず、放置してしまいました。35歳で部分入れ歯をつけるようになり、今は全ての歯をインプラントにしています」
結婚5周年記念で写真撮影のため、目の下のクマ取りを
50歳で所有ビルの管理を始めた米澤さんは、ビルのテナントに入った通信会社との縁で自らも通信会社を立ち上げ、56歳まで代表を務めた。その後娘に会社を引き継ぎ、半年くらいは旅行をするなど気ままに暮らしていたが、暇がかえってストレスになると気づき、地域のボランティアセンターに登録した。
「商売をしていたときには殺伐とした人間関係で荒んでいた心が、純粋な気持ちでボランティアにくる人たちとの交流で癒され、すっかりはまったんですね。いくつかの活動に携わったのち、15年前から現在のNPOで地域の竹林整備などを手伝い始め、8年前から代表になりました」
美容医療を受けようと思った最初のきっかけは、NPOの活動中だった。
「若い頃から目の下のクマが気になっていて、普段は色付きのメガネをして誤魔化していました。夢中で竹林整備をしている最中にメガネが竹や木の枝に引っかかっていつの間にか落ちている、ということが続き、半年で3個もメガネをなくしてしまったんです。いい加減メガネを外そうと思い、美容医療でクマを取ることを検討し始めました」
ちょうど数カ月後に結婚周年記念の写真を撮る予定もあり、手術を受けることに決めた。
「クリニック選びは慎重でした。実は若い頃に喧嘩でできた顔の傷を治療する際、いい加減な医師が抜糸をせず、跡が残ってしまった経験があるんです。だから今回は数件のクリニックを回り、よく話を聞きました。お願いすることに決めた医師は、先生自身も同じ施術を経験しており、術前術後の写真も見せてくれて、良いことばかりでなく手術のリスクについてもわかりやすく話してくれました。この人なら信頼できると感じ、気持ちが決まりました」
クマ取りの手術は目の下を切開して電子メスで脂肪をかき出すもので、所要時間は1時間半ほど。緊張したが、痛みはほぼ感じず、むしろ麻酔の注射のほうが痛かった。
「取れた脂肪はミミズ1匹分。見せてもらいましたがとても気持ち良くなかったですね(笑)。術後の腫れは1カ月で落ち着きました。その後額のボトックス注射も受けて、しわも目立たなくなり、今は毎朝鏡を見るたび晴れやかな気分です。竹林整備もメガネをつけずにできるようになり、視界もクリアで快適ですよ」
米澤さんのように70代で美容医療を受ける人は、世間ではまだレアなケースかもしれない。
「これから高齢化が進む中で、男女関係なく歳をとっても美しくありたいと思う人はますます増えていくと思います。いくつになっても、男性でも、美容医療をそのための手段の一つとして検討してもいいのではないでしょうか」
竹林整備を通して、地域や地球環境に貢献していきたい
数々の困難に遭いながらも、転職に独立、美容医療にもチャレンジするなど積極的に人生を切り拓いてきた米澤さん。今後もNPOでの活動に力を入れ、地域に貢献していきたいと言う。
米澤さんが代表をつとめるNPOには80名ほどのメンバーが所属し、前述の通り放置竹林の伐採のほか、竹灯籠の製作や、それを活用したイベントの開催、地域の小学生を対象とした体験学習の提供なども行っている。活動の軸となっているのは、放置された竹林がもたらす環境への悪影響を食い止めることだ。
「竹は昭和30年代まで農機具、食器、かごなどを作る素材として活用されていましたが、昭和40年代以降はプラスチックで代用されるようになり、今や竹の利用法といえば筍を食べるくらいになりました。高齢化も進み、現在全国の多くの竹林の管理が行き届かなくなり、放置されているのが現状なんです」
また放置された竹林は地面の保水力がなくなり、地盤が不安定になる。植物の光合成もできず、虫が住めなくなるため野鳥も来なくなってしまうという。こうした「竹害」を防ぐために、米澤さんたちは放置竹林を伐採したり、間伐した竹を活用したりしているわけだ。
「いずれは地域の寺社や公園などさまざまな場所で同時に竹灯籠を灯すイベントを開催するのが夢ですね。今後もイベントを通して地域交流を深めながら、多くの方に竹の魅力や活用法を知っていただき、日本全国に竹林整備を通したさまざまな取り組みが広がっていくことを願っています」