お笑い芸人とお客さんをつなぐ、延藤ミッツェル五朗の夢
「お笑いが好きだからこそ、変えたい」
周りに何と言われても、輝いて見えたお笑いの道
延藤さんが高校生の頃は今よりお笑い番組が少なく、深夜帯に放送していた番組を見るのが好きだったという。ただ、当時は進学校に通っていたこともあり、お笑い芸人になるという将来は考えていなかった。
「高校3年生の夏に、高校生を対象としたお笑いコンテスト『M-1甲子園』(現在の『ハイスクールマンザイ』)の第1回が開催されたんです。お笑い好きの友達に誘われて出場したら、決勝まで進んじゃって。決勝の日はプール付きのホテルに泊まらせてもらって、リムジンで会場のなんばグランド花月まで送迎されて、世間知らずだった僕はすごくいい世界だなって思いましたね(笑)」
「M-1甲子園」の優勝候補と目されながらも、優勝はできなかった。その悔しさを胸に、相方とともにお笑いの道に進むことを決める。「大学に通いながらお笑いを続け、卒業までに芽が出たらプロになろう」と、話していた。
「だから、僕はひとまず勉強しなくても入れる大学を目指せばいいかなって。そう思ってたら、秋口くらいに、急に相方が『九州大学に行く』って言い出したんです。僕は関西の大学に進学するつもりだったので、まさかの解散。その時点で僕は受検勉強をしていないし、大学に行く意味もなくなっちゃったので、進学せずに養成所に入ろうと考えました」
通っていた進学校では、進路に養成所を選ぶのは異例のこと。教師から、「とにかく大学には行け」と説得された。親戚の間でも、叔父の弁護士事務所を継ぐことを期待されていたため、「お笑いなんて認めない」と親戚会議が開かれた。
「バラエティ番組も見せてもらえないほど真面目な家庭だったので、当然家族にも大反対されましたね。でも、唯一祖母だけが応援してくれて、家族や親戚一人ひとりに『孫に好きなことをやらせてあげてくれ』って説得してくれたんです。そのおかげで芸人になれたので、祖母の名前・延藤みちこをもじって、延藤ミッツェル五朗って芸名にしました」
いざ養成所に入ると、反対していた家族も徐々に認めてくれるようになり、実家に帰るたびにお笑いのDVDが増えていた。
芸人の収入はプラマイゼロ、納得のいかないお笑いライブのシステム
プール付きのホテルにリムジン、キラキラした生活に憧れて入ったお笑いの世界。しかし、実際に待っていたのは、ただただ地道な活動だった。
「『M-1甲子園』でのキラキラした経験しかなかったから、騙されたと思いましたね(笑)。決勝進出したとはいえ、養成所に入ったらみんなと同じスタートだし、なかなか思うようにはいかなかったです」
入学したNSC(吉本総合芸能学院)の1期上の先輩には、かまいたちや和牛といった人気実力ともに高いコンビが揃い、厚い壁を感じた。
「苦戦はしましたけど、好きで始めたことだから、ネタを考えることやお笑いを続けることに苦痛を感じた記憶はないんです。いつか結果を残したいなと思いながら活動していたので、大変なことも楽しかったですね」
養成所での1年間を経て、プロのお笑い芸人としての日々が始まる。当初は高校時代の友達がライブを見に来てくれたため、集客に苦労することはなかった。
「ただ、同級生も就職して忙しくなればライブに来られなくなるので、ちゃんと自分のファンをつけないといけないんだって身に沁みましたね。あと、お笑い界のシステムにも苦労しました。多くのお笑いライブでは、まず芸人自身がチケットを買い取って、そのチケットを売るんですよ。だから、すべて売りきっても、芸人には利益が出ないことが普通なんです」
劇場によっては、ライブに出演するため、1組数千円のエントリー代を払わなければいけないところもある。
「お笑いだけでは生活できない仕組みになってるんです。そこに納得がいかなくて、もし自分の劇場を持つことができたら、芸人の稼ぎの部分をクリアにできるんじゃないかって、早い段階から考えてました」
思い描いた理想は、芸人もファンもハッピーになれるWinWinな場所
2016年、当時組んでいたトリオのテレビ出演が増え、人気が出そうな兆しが見えたタイミングで解散となってしまう。既に芸歴は10年を過ぎていた。
「その時点で、売れかけては解散する経験を繰り返していて、ここまでやってもダメかって……。そんな時に知り合いの放送作家さんから『今後どうするの?』って聞かれて、ふと『自分の劇場を持てたらいいんですけどね』って言ってみたんです。それまでは『できるわけないじゃん』ってバカにされそうで、『劇場持ちたい』なんて人に言ったことなかったんですけどね」
放送作家からは、「今は、クラウドファンディングで資金を集めて夢を実現できる時代だから、動いてみたら?」というアドバイスが返ってきた。思いがけない提案に心が躍り、クラウドファンディングに乗り出す。一方で、当時は熊本地震が起きた直後だったため、「こんなときに自分の夢のために資金を募るなんて、不謹慎なのではないか」という葛藤もあった。
「やっぱり諦めるべきかと思ったときに、それまで一緒に頑張ってきた芸人仲間が『協力するよ』って資金を出してくれたんです。それぞれの芸人のファンの方々も手伝ってくれて、クラウドファンディングの目標を達成することができました」
また、劇場の設立にあたっては、先輩芸人の小島よしおさんの助けもあったという。その支援に対する感謝の意を込めて、小島さんのギャグ「ラスタラスタピーヤ」の一部である「ラスタ」を劇場の名前に冠した。
いざ劇場をつくったものの、高校を卒業してから芸人だけを続けてきたため、劇場の経営には不安があった。そんなときも、税理士資格を持った芸人仲間や建築士の知り合いがたまたま近くにいたことで、なんとか形にすることができた。
「芸人として売れなかったからこそ、横のつながりが強くなって、多くの人に支えてもらえたのかもしれません。既に結果を出している人には、周りも『出資しよう』って気持ちにならないでしょ(笑)。僕は秀でた能力があるわけではないので、いつも周りのみんなに助けられてます」
オーナーを務める「ラスタ池袋」は、エントリー代なしで芸人を出演させ、お客さんを呼び込んだ数に応じて出演料も支払っている。
「ライブは1日3回、1回500円で、お笑いライブを見たことがない人でも気軽に入れるように設定しています。もっとお笑いを身近なものにして、お笑い好きな人を増やして、お笑い界を盛り上げたいんですよね。お笑いライブが日常的なものになれば、テレビに出なくても芸人を続けやすくなるじゃないですか」
芸人として生きてきた中で、才能のある芸人たちがお笑いの道を退いていく姿を何度も見てきた。
「芸人をやめなくてもいい環境をつくりたいんです。『ラスタ池袋』に出れば稼げるし、ネタも試せるし、お笑いだけで生活できるというところまでもっていきたい。お笑いを諦めてしまう芸人をゼロにすることが理想ですね」
芸人の道を進んだことを一度も後悔したことはない
「だって、今が一番楽しい」
芸歴18年が経った今も、劇場の運営を行いながら、芸人として舞台に立ち続けている。
「お笑いって、演者もお客さんも全員がマイナスなことを考えないエンターテインメントなんですよね。芸人は全員を笑わせようとしてるし、お客さんも笑いたくて見に来る。マイナスなことが一つもないところが魅力だし、やってても楽しいんです」
経験しているからこそ感じる芸人という職業の魅力は、自身の個性を武器にできること。
「普通の人ならコンプレックスになりそうなことが、お笑いの世界では武器になる。それってすごいことですよね。とはいっても、僕自身には突き抜けた個性がないと思ってるので、個性が強い人をコントロールできる人を目指してます。だから、これまで相方に選んできた人は、みんな個性が強いんですよ(笑)」
芸人という職業を選んだことは、一度も後悔したことがない。世の中には「学生時代は楽しかった」と過去を懐かしむ人がたくさんいるが、自分は年々「楽しい」を更新している。
「『今が一番楽しい』って言えるようになったのは、『売れない』『お笑いだけで食べられない』といったしんどいことがきっかけで、自分の劇場を持つに至ったときからかな。あのときに、ツラいことにも意味があるんだって思えたんです。だから、どんなに大変な状況でも、今この瞬間を楽しめるようになったんですよね」