片手袋に魅せられた男の研究「意味も価値もないものに時間を割くって贅沢だなぁ」
“切なさ”と“やさしさ”を併せ持つ、片手袋という複雑な存在
石井さんが“片手袋”に興味を持ったきっかけは、小学1年生で読んだウクライナ民話の絵本『てぶくろ』。
「おじいさんが手袋を片方だけ落とすところから始まる物語を読んで、街中にも落ちてるよなって気付いたんです。それから、道端に落ちてる片手袋を見つける度に『またあったぞ』って。誰に言うこともなく思ってました」
そんな日々に変化が訪れたのは、2004年頃。初めてカメラ付き携帯電話を購入した石井さんの前に、片手袋が現れた。
「ある夜、コンビニに行こうと玄関のドアを開けたら、目の前に片手袋が落ちてたんです。それまで携帯のカメラは使ったことがなかったんですけど、せっかくだから撮ってみようかなと。撮った瞬間にすべてがわかったというか、これだ!って感じたんです」
そのときの感情は今でも言語化できない。それでも、片手袋を写真に収めることが、自分のすべきことだと感じた。記念すべき1枚目から、100メートル歩いた辺りですぐに2枚目を発見。片手袋の写真は着々と集まっていく。
「枚数が溜まっていくと、共通点や差異が見えてきたんです。『似たようなシチュエーションで片手袋を見かけることが多いな』とか『同じ手袋だけど、昨日と今日で位置が変わってる』とか。その違いをまとめてみたいと思って、“研究”と称した活動を始めました」
最初に気になったのは、落ちたまま放っておかれている「放置型」と、落ちていた手袋を拾った人が目立つ場所に置く「介入型」の違い。
「最初はすべての片手袋を『放置型』と捉えていて、落としものの切なさや儚さ、悲しさを感じていたんです。だけど、意外と拾われている『介入型』が多いことに気付いて、悲しいだけじゃないなと。手袋を落とすという、会ったこともない相手の小さな不幸を見過ごせずに、拾って目立つ場所に置く“やさしさ”の象徴でもあったんですよね」
研究を進めると、さらなる気付きもあった。その“やさしさ”には選別があったのだ。
「『介入型』になりやすいのは、手編みや革製の手袋なんですよね。一方、軍手やゴム手袋はなかなか拾われない。そこには選別があるんです。道端に落ちている片手袋も、掘り下げていくと複雑な背景が見えてくるんです。そこが面白いなって」
“好き”をシェアすることで、得られるヒントがある
片手袋にのめり込んだのは、“誰も注目していないもの”だったからかもしれない。
「自分だけがこの面白さをわかってるんだ、という快感はありましたね。だから、片手袋の撮影を始めた数年後に、伊集院光さんも片手袋を撮っていることを知って、ショックを受けたんですよ。もうやめようかな……って(苦笑)」
子どもの頃に伊集院さんのラジオをよく聞いていた石井さん。影響を受けている伊集院さんが同じことをしていたという事実に、妙な虚しさを感じた。一方で、そんな自分にがっかりもした。
「誰も注目していないものに気付いた優越感で続けてきたのかと思うと、情けないなって。最初はただ楽しくて始めたはずじゃないかと思い直して、そのときは続けることを選びました。それから数年経ってSNSの時代になってみると、世界中に片手袋を撮ってる人がいることがわかって、気にすることじゃなかったんだなと(笑)」
今は、SNSを通じて“好き”をシェアする文化が、片手袋研究において重要だと考えている。
「路上の手袋以外にも、文学や映画、漫画などに出てくる片手袋も研究対象にしているんですけど、これって一人じゃ収集し切れないんですよ。世の全ての作品に片手袋が出てくる可能性があるものの、一人で全部はチェックできないから」
SNSで片手袋について発信することで、「あの漫画に片手袋が出てました」「北海道にはこんな片手袋がありました」と、情報を提供してくれる人がいる。
「ありがたいですよね。個人的には、誰にも発信することなく一人で突き詰める人に憧れるんです。だけど、片手袋に関しては、広めていくことで情報が集まりやすくなり、研究も進んでいくことを実感しています」
撮影し続ける理由がわからないから、苦しくて楽しい
片手袋を撮影し始めて、約18年。最近思っていることがある。
「なぜ、僕は片手袋を撮っているんだろう?」。
「一生懸命考えるんですけど、その答えがわからないんですよ。今は楽しさも薄まって、義務感というか。『片手袋と出合ったら絶対に撮影する』というルールを決めてるんですが、自分で勝手に決めたルールだから、なぜ義務感が芽生えてるのかがわからないんですよね(笑)」
帰宅中、タクシーに乗っているときに道端の片手袋を見つけると、家に着いてから自転車で戻って撮影する。バスの中から見つけたら、目的地に着いていなくてもバスを降り、撮りに走る。片手袋にとらわれた現状を、“片手袋の呪い”と呼んでいる。
「片手袋を撮らない自分が恐ろしいんですけど、何に恐れを抱いているのかがわからない(苦笑)。だから、“研究家”と名乗ってるところがあります。客観的な証拠を積み重ねて謎を解明する研究というスタンスに身を置くことで、わからない何かに飲み込まれないようにしてるんです」
一方で、「わからない」という感情に、快感を覚えている自分もいる。
「わからないことがあるって、苦しみであり、楽しみでもあるんですよね。幻想かもしれないけど、そのわからないことを解き明かすことが、自分が生まれてから死ぬまでの役割のような気もしてて。それがやめられない一番の理由じゃないかと感じてます」
正直、片手袋研究が何の役に立つかはわからない。ただ、いつか思いもよらない気付きにつながってくれたらと思う。
「貝塚みたいになったらいいなと。かつて貝殻を捨てていた場所が、何千~何万年前の生活を知る糸口になった。片手袋の写真も、後世の人が偶然見て、『この時代の横断歩道はこんな形だったんだ』『バス停ってものがあったんだ』って、現代の生活様式を知る手掛かりになるかもしれない。だから、理由は見つからなくとも、手を抜かずに記録しておきたいと思うんですよね」
「趣味は楽しくなきゃいけない」って、思わなくてもいい
片手袋研究は、「路上観察」という活動に分類される。
「片手袋以外にも、路上に置かれた植木鉢や街角に佇む信楽焼のタヌキとか、あらゆるものにマニアがいるんですよ。そういう人たちって、“見えなくていいものが見えてる”んですよね。片手袋も路上の植木鉢も、多くの人は認識すらしないものじゃないですか」
石井さんが思う、「路上観察」をする人たちの共通点は“大らかさ”。
「今って、何に対しても意味や価値が求められる時代だと思うんです。そんな中で、意味や価値という評価にとらわれずに植木鉢やタヌキを見ようとしてる人って、大らかですよね。考え方によっては、意味も価値もないものに時間を割くって贅沢だなぁって」
改めて振り返ると贅沢と感じることだが、日常の中では特別な感情を抱くものではないという。
「僕にとって片手袋は、歯磨きと一緒。もはや意識してないというか、片手袋を見つけても特別な感動はなくて、機械的に撮影するだけなんですよね。多分、世の中の多くの人は“楽しさ”にとらわれ過ぎてる気がするんですよ」
何年も没頭しているものだからといって、そこに“楽しさ”を求めているわけではない場合もある。でも、それでいい。
「趣味は楽しくなきゃいけない、役に立たないといけないって先入観があるけど、そうじゃなくていいんじゃないかな。むしろ、心を激しく揺さぶらないものほど、心地いいんだと感じます。日常に溶け込むものの方が続くと思うし、僕自身はそういうものが趣味として続いてる」
もはや日常となっている片手袋だが、まだ叶えたい夢や解き明かしたい謎はたくさんある。
「作品に映り込む片手袋には必ず意図があるはずだから、その意図を作者に聞いてみたいし、世界で記録された片手袋の中で最古のものが何なのかも解き明かしたいです。あと、『G7(グローブ7)』を開催したい。各国で片手袋を撮ってる人が集まって、互いの写真を見ながらあーだこーだ言う会をやりたいんですよね」
“好き”がいつしか日常になり、意識しない存在になっていく。それが石井さんと片手袋の関係だが、きっと“好き”の形は人それぞれ違うだろう。
「若い子に『没頭できるものがない』と相談されることがありますが、何かを好きになる気持ちに世代差はないと思うんです。“好き”を追求すれば、いつか絶対に『よかった』って思えるときがくるはずだから、自分なりの熱を持ち続けてほしい。……って、片手袋もそうなってほしいので、自分自身にも言い聞かせてます(笑)」
(撮影協力)
ねづくりや
東京都文京区根津2-22-10
朝昼晩、時間帯に合わせたおいしいごはんが楽しめるカフェ。日本各地から厳選した食品や雑貨の販売、ギャラリースペースの運営、トークショーやワークショップなどのイベントも行っている。